歴史に思いを馳せながら。北習志野周辺をレポートします!

北習志野周辺は、江戸時代には幕府による放牧場が広がり、その後は旧陸軍の演習地として明治天皇から「習志野ノ原」という名前を賜るなど、さまざまな歴史が詰まった土地です。近くには歴史を感じられる場所や文化財なども現存しています。また、2020(令和2)年に創設100周年を迎えた「日本大学理工学部」は、1965(昭和40)年にこの地にキャンパスを整備し街と共に時を刻んでいます。さらに、「北習志野」駅は現在も駅前の4つの商店街が賑わい、歴史・文教・商業と、活気を保ち続けている街です。今回は北習志野周辺の歴史を紐解きながら、現在の様子をレポートします。

「北習志野」駅近くの「近隣公園」は緑も豊か
「北習志野」駅近くの「近隣公園」は緑も豊か

新京成電鉄と東葉高速鉄道の2本が乗り入れる「北習志野」駅には、駅前に大きなシンボルツリーが植えられ、バスターミナルやタクシー乗り場が整備されています。新京成線が地上駅、東葉高速線は地下駅で、駅ビルからつながるペデストリアンデッキで、駅前の商業ビルや反対側道路へもアクセスしやすくとても便利。

この辺りは、古くは江戸時代から放牧場として、明治時代には陸軍近衛兵の演習場があった歴史のある地域です。 平らで広大な土地が広がっていたことから、演習場は「一望千里習志野平原」とも呼ばれました。ちなみに「北習志野」駅は船橋市習志野台という住所にあり、習志野市ではありません。かつてこの一帯は「習志野原」といわれる広大な平原だったため、その名前にちなんでつけられた地名が今も随所に残っているのです。

駅ビルにはコンビニや
病院も!

「北習志野」駅
「北習志野」駅

広々とした駅前ロータリー
広々とした駅前ロータリー


千葉県の房総はなだらかで安定した土地だったことから、平安時代から馬の産地でした。江戸時代には、下総(しもうさ)に幕府による放牧場「小金牧」が設置されています。現在の北習志野付近は、5つの牧場から成る小金牧の「下野牧」にあたります。幕末には約200頭もの馬が、下野牧に放牧されていたそうです。

ほぼ野生の状態で放牧されていた馬たちが逃げ出したり、畑を荒らさないように、牧場の周辺には土手が築かれており、今もその姿が残る場所もあります。現在は道路の中央に残る「下野牧二和野馬土手」は保存状態の良い土手で、船橋市の指定文化財になっています。土手で囲われた牧場には随所に出入り口である「木戸」が設けられていて、新京成線の「北習志野」駅の隣駅である「高根木戸」駅の地名は、これが由来になっています。

『冨士三十六景 下総小金原』1858年歌川広重 国立国会図書館蔵
『冨士三十六景 下総小金原』1858年歌川広重 国立国会図書館蔵

今も500mほど現存する

放牧場の囲いだった「下野牧二和野馬土手」
放牧場の囲いだった「下野牧二和野馬土手」


『下総国習志野原大調練天覧之図』1874年曜斎国輝 国立国会図書館蔵
『下総国習志野原大調練天覧之図』1874年曜斎国輝 国立国会図書館蔵

古くから放牧場として使われたこの地域一帯は、明治維新を経て「大和田原」と呼ばれ、陸軍近衛兵の演習場となりました。東京近郊で便利な場所であったことから頻繁に利用され、戦前の大日本帝国陸軍の中核をなす近衛兵たちの多くは、ここで訓練されたといいます。

1873(明治6)年4月、西郷隆盛率いる近衛兵の大演習を観閲するために訪れた明治天皇が、この地を「習志野ノ原」と命名。同年の太政官達により、正式に「習志野原」と呼ばれるようになりました。今も船橋市や習志野市で「習志野」という地名が多く使われているのは、その名残です。


第二次世界大戦後、食糧難を支えるべく習志野原は開拓農地となり、全国から入植者が集まりました。その後、復興と高度経済成長と共に習志野地区は農地から住宅地へと姿を変え、鉄道が整備されていきました。陸軍鉄道連隊の実習用に作られた線路が新京成電鉄に払い下げられ、1947(昭和22)年に「新津田沼」と「薬円台」間で開通。その後少しずつ延長し、1966(昭和41)年には新京成初の橋上駅である「北習志野」駅が開業しました。

1961(昭和36)年には、船橋市内では「前原団地」に次ぐ2番目に開発された公団住宅「高根台団地」の入居が開始。賃貸4,650戸、分譲220戸という大規模なもので、当時の最新設備を備えた団地は庶民の憧れだったそうです。
1967(昭和42)年には、「北習志野」駅にある「習志野台団地」の入居も始まりました。こちらの団地は、習志野演習場の跡地に建てられており、団地の造成工事の際「永久堡塁」と呼ばれる演習用の要塞が埋められています。これは日露戦争後に旅順港(中国)に置かれていたロシアの要塞を模して作ったものです。団地造成時に船橋市は歴史建造物としての保存しようとしましたが、当時は高度経済成長真っ只中。住宅供給が優先され叶わなかったそうですが、地下に眠る歴史を感じます。

新京成初の橋上駅

「北習志野」駅開業当初の木造の駅舎 船橋市提供
「北習志野」駅開業当初の木造の駅舎 船橋市提供

「永久堡塁」船橋市郷土資料館提供
「永久堡塁」船橋市郷土資料館提供


1960(昭和30)年代、新京成沿線には続々と団地や住宅が建てられ、多くの人口が流入しました。「北習志野」駅も「習志野台団地」の造成により、商店街や病院などの生活に必要な、暮らしやすい環境が整備されていきました。現在も、駅前の商店街には、多くの人々が訪れています。

駅からまっすぐに伸びた「JuJuきたなら」は、雨でも買い物が楽にできる屋根付きアーケード商店街。惣菜店から青果店、100円ショップなど様々なお店が軒を連ねます。「JuJu」の名前は市民からの一般公募で選ばれたもので、毎年ふなばし市民まつりの会場として多くの人が集まるのだそう。「JuJuきたなら」を真っ直ぐ進むと、「習志野台団地」内を横断する商店街「ビアーレきたなら」が見えてきます。

北習志野と「高根台団地」を結ぶ道路にあるのが「北習志野エビス通り商店会」。全長800mに渡って、カフェや趣味の店などがずらりと並び、歩くだけで楽しくなる商店街です。「北習志野」駅の向かいにある市街地住宅の1階にも「エール北習協同組合」があり、「今日はどこで買い物をしよう」と商店街が選べる贅沢な立地なのです。

昔懐かしく、今も元気な
アーケード商店街

美しいけやき並木から命名された「JuJuきたなら」
美しいけやき並木から命名された「JuJuきたなら」

新緑がまぶしい「ビアーレきたなら」
新緑がまぶしい「ビアーレきたなら」


最後に、この街を語る上でもう1つ紹介したいのが、「日本大学」です。東葉高速線の「北習志野」駅の隣にある「船橋日大前」駅には、線路を挟んで南側に「日本大学理工学部」が、北側には「日本大学薬学部」があります。

「日本大学理工学部」は1920(大正9)年に高等工高学校として始まり、私立大学としては2番目に理工系大学として学部を開設したという歴史ある学校です。設立当時から東京・駿河台にキャンパスを構え、1965(昭和40)年には、ここ北習志野にも広大かつ緑豊かなキャンパスを開校。「船橋日大前」駅の西口駅舎や周辺設計は理工学部によるもので、「関東の駅百選」にも選ばれています。

また「日本大学薬学部」は、工科系の知識と技術を活かした薬学教育を行うため、1952(昭和27)年に理工学部薬学科として設立されたという珍しい歴史があります。その後、1988(昭和63)年に薬学部に分離独立し、今の場所にキャンパスを構えました。理工学部のキャンパス内には「日大習志野高等学校」が、キャンパスの南側には「千葉日大第一中高等学校」もあり、北習志野周辺には多くの教育機関も集まっています。歴史あり、そして学ぶ学生たちが集う大学がある街。活気があることも納得ですね。

1977年頃の「日本大学理工学部船橋キャンパス 図書館」日本大学提供
1977年頃の「日本大学理工学部船橋キャンパス 図書館」日本大学提供

広々として美しい!

現在のキャンパスの様子
現在のキャンパスの様子


発見ポイント!

現在の「北習志野」駅の様子
現在の「北習志野」駅の様子

  • (1)江戸幕府や旧陸軍にも利用されたなだらかで安定した土地
  • (2)歴史ある大学もあり学生が集う元気な街
  • (3)4つの商店街が支える抜群の生活しやすさ